SSブログ

10.24 何で高速道路への誘導標識がないんだ! [公共]

 10月20、21日と1泊2日で山中温泉へ行ってきた。以前に、その下にある山代温泉へ行ったことがあり、往きは北陸自動車道の加賀ICから入った。宿に置いてあるパンフレットを見ると、最寄のICはもう一つ福井北ICが表示されている。
 チェックアウトのとき、フロントで敦賀に向かうにはどちらのICから入れば早いか聞いたところ、福井北ICとのこと。
 そこで、一山超えて福井北ICを目指すことにした。
 小生の車にはナビは付いていない。大雑把な方向感覚と道路案内標識に従えばほとんど間違いなく到着できるからだ。
 途中、丸岡ICへの誘導標識があったが、高速道路とは随分離れている感がし、これは無視して先へ進む。
 福井平野らしき所へ出て、そろそろ福井北ICへの誘導標識があってもよさそうと、助手席の女房と2人で見落とさないよう注意して車を進める。
 そして、福井県立大学の際を通る。“へえー、小さな県だが福井には県立大学があるんだ”と女房と感心しながら、南進するも依然として誘導標識は見つからない。途中で右に曲がったり左に曲がったりしながら南へどんどん進み、福井市は過ぎた感がした。次のICはどこか知らないが、道路案内標識に直進は鯖江市とあり、鯖江市には確か鯖江ICがあるはずだから誘導標識がそのうち見つかるだろうと、随分と時間をかけて走り続け、やっと鯖江ICへの誘導標識を見つけ、ほどなくして北陸自動車道に上がった。
 少なくとも30分はロスしたであろう。通ったことのない道を選ばずに、加賀ICへ戻る道を選べば良かったのに…である。
 ここまでのことは、別に腹がたつことではない。
 今朝、当店の開店時刻まで時間があったので、3日前に通った道と福井北ICの位置関係をネットの地図検索で見てみた。
 そしたらどうだ、福井県立大学の直ぐ近くに福井北ICがあるではないか! なんで誘導標識がないんだ!
 これには頭にきた。
 まだある。そこから南進したら福井ICもある。でも、その誘導標識もなかった。いいかげんにせえ!である。
 その間、道路案内標識は幾つもあったが、ICへの誘導表示をしないとは、どういうことだ!
 まだ他にも腹立ちがある。北陸自動車道に乗るのが大幅に遅れたので、その後の予定も順次遅れ、帰りに岐阜市内で買い物をしたかったのだが、暗くなって道を間違えてしまい、大回りになるからと買い物をあきらめざるを得なかった。明るけりゃ、道を間違えなかったものを、である。
 こうして次から次へと憤懣やるかたない気分にさせられてしまった、開店前の今。
 これじゃ、今日1日、面白くない顔で店頭に立つことになり、ますます腹が立つ!
(1時間後に追記)
 こうして書きなぐってしまうと、胸がスーッとして、怒りも納まりますね。やっぱり腹が立ったときは“腹たち日記”なるものに怒りを乗り移らせるにかぎります。

<備考:この“腹たち日記”の目的>
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック ⇒ 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。
 

「忌明け50日、神社境内に入ってはならぬ」とは何とも解せん! [公共]

 9月13日に氏神様の大祭がある。1年で一番大きな行事であり、小生は神社総代長として事前準備から当日の大役の務めなど随分と責任ある仕事をせねばならない。
 ところが、おふくろが8月8日に死に、忌明け50日、神社境内に入ってはならぬ(当地の風習)となった。でも、大祭協議会の全体最終打ち合わせを8月22日に社務所で予定しており、会場を変更する面倒くささから横着して予定通り神社境内にある社務所で開催したところである。もっとも、鳥居をくぐるのは避け、社務所脇の荷物搬入口から入ることにしたが。
 その協議会において、小生は当日のみならず事前準備で神社境内に入るのも避けるべしとの結論が出て、総代長職務代理を前総代長(今年度は平総代)さんに勤めてもらうことになり、小生は陰で少々手伝うだけとなった。
 小生は総代長としての任務を放棄させられたのである。
 こんなバカな話があるか!である。

 なぜならば、神道の死生観は次のとおり忌み嫌うものではないからだ。
 「人はみな神の子であり、神のはからいによって母の胎内に宿り、この世に生まれ、この世での役割を終えると神々の住まう世界へ帰り、子孫たちを見守る守護神となる。」
 つまり、死は「神の世にお戻りなる」敬虔なものであり、180度意味が違うのである。
 本来ならば、通夜も葬儀も神社の拝殿で行わねば、死んだ人は神々の住まう世界へすんなりとは帰れないであろう。
 それが、どうだ。棺桶をそんな所へ運び込んだら、皆から「罰当たりめ!」と怒鳴られるに決まっている。また、死んだ人が出たら、その家の神棚を白い布で目隠しせねばならない風習となっている。その家の神棚にいらっしゃる守護神は、「死んだお前なんぞ見たくもない、来るな!」と言わんばかりだ。
 死んだ人がこのように神に毛嫌いされたら、とてもじゃないが神の世に戻れそうにないし、守護神にもなれそうにない。
 
 ここまでは死んだ人の取り扱いだが、ピンピン生きている家族までが、「忌明けまでは境内に入るな、神棚は目隠ししておけ」と、忌み嫌われるとは何事だ。家族に死霊が乗り移っており、神は、大の死霊嫌いで「寄るな!来るな!近寄るな!」と言っておられるのであろうか。
 
 小生は、日本人が太古の昔につくりあげた八百万神が好きだ。「好きだ」なんて言うと不謹慎だとまたまた非難を浴びようが、神社にお参りすると真摯な気持ちになれ、何か願い事を頼むのではなくて、今の自分が今の家族がこのように暮らしていられることに、ただひたすら感謝することができるのである。神様のお陰だと。
 だから、おふくろがたった10日間寝込んだだけで何の苦しみもなく大往生したことに対して、神様への報告と感謝のため、氏神様にも神棚の守護神様にもお参りしたいのだが、「神はお前を嫌っているから、参ることまかりならん。」とのことで、小生の希望は叶わぬのである。

 おかしい、どこかおかしい。神はもっと身近な存在であり、当然にして神は死を喜んで受け入れてくれる存在であるはずだ。

 「忌明け50日、神社境内に入ってはならぬ」が当地の風習だが、通常は「忌明け50日、神社に参拝するのは控える」ということのようだ。参拝するには、境内の入り口にある鳥居の前で軽く頭を下げ、境内に入るべしであり、ここから既に参拝が始まっているのだから、境内に入ってはならぬと当地では言われるのであろう。
 そこで、少々ネット検索し、こうした風習はどのようにして決められたのか調べてみた。

 古くは、奈良時代の「養老律令」、江戸時代の「服忌令」などに見ら、 現在の服忌期間の基になったものは明治7年太政官布告「服忌令」のようで、それを引き継いで戦後は神社本庁に指針のようなものがあるようだ。
 神社本庁のHPを見ても何も書かれていなかったが、ある神社のサイトによると、それは次のようなものとのこと。
 忌中(きちゅう)
 故人の死を悼み、御霊(みたま)を鎮める期間
 神事や結婚式、公の行事への出席や派手な行いを控え、慎んだ生活を送ります。
(お祝い事やお宮参りなどの神事は忌明け後に延期します)
※同居家族の場合≪忌明け≫は50日(仏教では49日)
※忌服期間の目安
  親・配偶者:50日、兄弟姉妹・子供:20日、祖父母:30日、おじ・おば:20日、いとこ・甥・姪:3日

 別のある神社のサイトで、一定期間参拝してはならない理由として、次のように書かれている。
 「死」というのは穢れ(ケガレ)でもありますから、死に接してケガレの残っている間は、神社へ参拝しない、神棚も拝まないのです。神前へケガレを持ち込む事はもっともしてはいけないことですから。
 またケガレが他人へうつらないように全てのことを控えめに、慎むということになります。
 神道では、50日間の忌の後には、清め祓いをおこなって、ケガレをとりのぞきます。それ以降は神社への参拝等も通常とおりおこなえます。…
 ケガレとは罪や穢れというように、不潔、不浄というような意味です。ニュアンス的に。漢字でかくと同じになりますが汚れ(よごれ)と汚れ(けがれ)の違いは、ケガレは物理的によごれていることでなく、内面、精神面などの不潔、不浄をいうものです。
 神道、神社は清浄をもっとも大切にしますから不潔、不浄は徹底的に祓い清めます。神社では何かするときには必ずお祓いをしますが、神様にお供えする物や、神様の前に行く人に、不浄なもの、あるいはケガレのない状態でなければいけないからです。
 たとえば神主にも祭典が近づいてくると禊(みそぎ)潔斎(けっさい)があります。神社に篭もり外界との接触を絶ち、食べるものを制限したり、水や塩で身を清めたり、いろいろあります。
 神社へお参りするとき、手水舎で参拝前に手や口をすすぐのは禊祓い(みそぎ)の簡易版ってことです。…
 Q:子供を産んだばかりの女性はケガレていると言われる神社がありました。これはなぜか?
 A:死のケガレと同様に、血のケガレというものもあります。これは血そのものでなく「出血」のことです。…出産にともない出血していますから、産後間もない女性が参拝を遠慮するよう言われるのは、身内がなくなったあとしばらく遠慮するのと同じ理由です。…

 以上のような解説である。なお、当然のことであるが、残念ながら小生の疑問を解消してくれるような解説は見つからなかった。
 では、なぜにかような、あまりに神経質すぎる「穢れ忌避」を神社が徹底的に行うのか。
 これは、現在の日本人の「清潔文化」との関わりが深いことが想起される。
 もう8年以上も前のことであるが、小生の友人N君が著した社会学論文集(単行本にしたら約1300ページ)の中に「穢れ思想」に関した小論文があることを思い出した。
 表題は「3K職場を忌避する日本人」であり、その論点は違うが、その中で井沢元彦氏の著「逆説の日本史」から「穢れ思想」に関しての引用があり、それを部分的に孫引きして紹介しよう。

…「ケガレ」という思想が日本人にはある。…「罪も禍(わざわい)も過(あやまち)も皆同じ穢(けが)れで、悪霊の仕業と考える」-これがケガレ思想のエッセンスだ。これは日本史そして日本人を動かす極めて重要な原理である。…われわれは、他人が使った箸や茶碗に、その人独特の「垢(あか)」のようなものを感じている。これがケガレである。…ケガレ忌避…も、一種の信仰であり宗教だ。…平城京(奈良)に一旦都が落ち着くまでの、たび重なる遷都の理由は、…もちろん、これもケガレのせいだ。死穢(しえ・死のケガレ)を嫌ったのである。…
 そのことを念頭におけば、日本人が割箸を使うことの理由もわかるはずだ。…われわれ日本人は、人が一度使った箸は、洗っても何となく「キタナイ」と思うからだ。すなわちケガレを感じるからだ。…
…日本人は…今でもケガレというものを極端に嫌う「信仰」があり、特に古代・中世において最も嫌われたケガレは…「死穢」であったことだ。…そして、この死穢を嫌うあまり、日常的に死穢に触れる職業は差別の対象となってしまった、という事実もある。
…警察も「罪」という死穢に次いで忌み嫌われるケガレに、日常的に触れざるを得ないうえ、昔の警察は今と違って処刑部門もあるので、当然「罪人の死穢」という「二大ケガレ」に触れざるを得なくなる。こう考えてくると、武士政権以前の日本つまり平安時代の律令政府が、「なぜ公式の軍隊を持たなかったのか」「なぜ死刑制度を廃止したのか」という、他の国には見られない大きな特徴を持っていたことも理解できるはずだ。その最大の理由はケガレ思想なのである。…
…経済的に豊かになると、ハングリーな部分が消え、代わりにケガレ思想が頭をもたげてくる。中国には「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、日本は「衣食足りてケガレを嫌う」のである。たとえば、日本人は「死穢」を最も嫌う。だから、飛鳥・奈良時代は日本が全体として貧しい時代であったにもかかわらず、天皇一代で都を「使い捨て」た。
…文字どおり「平安」な時代になると、天皇も公家も一切武器を手にしなくなり、それどころか国を守る軍隊さえ、「ケガレ」たものとして廃止してしまう。宮中に鳥の死骸が落ちていたので大騒ぎをして、天皇以下キヨメ(ハライ・ミソギ)を行ったというのは、この時代のことである。…ケガレ忌避信仰があるから、「血」や「死」に対する異常なまでの潔癖症となるのである。
 そのために、彼等は政治という「ケガレ仕事」から、次第に遠ざかることとなる。実際行なうのは「儀式」と「歌詠(歌を詠むこと)」だけとなる。…自分たちの権力抗争さえも、自らは「手を汚さず」武士たちを雇って代理戦争させるのだ。…
…日本史における、ケガレ思想の最大の影響は、現実の政治を「ケガレ仕事」と考えるために、それを「不浄役人」に扱わせる、という政治形態ができることだ。これが日本の古代と中世を分けたのである。
…今は平和な時代だから、…若い世代は過度の潔癖症に走る。かつての平安時代の朝廷人がそうであったように。
 しかし、こんな事を続けていては、ますます世界との亀裂は深まるばかりだ。早い話が、潔癖症の若い世代は、外国人を「不潔」だと考えるようになるはずである。外国では、そんな「抗菌消毒」はしていないからだ。…国際的な水準では不潔でもなんでもないものを「不潔」と考えるような人間は、…「不潔な国々」との距離を置くようになる。
 言うまでもなく、これは「差別」の第一歩だ。
 だから、いま日本にとって急務なのは、「耐不潔」教育である。そんな「抗菌消毒」などしなくても人間は充分生きていけることを、初等・中等教育の場でしっかり教えるべきなのだ。そのためには生物学的アプローチもさることながら、そういう「潔癖症候群」の原因はケガレ思想にあり、日本特有の差別の根源であることを、歴史的な知識としてきちんと教えるべきなのである。(孫引きここまで)

 いかがでしょうか。
 その思想は崇高なる神道ではあるが、かようにして生じたケガレ信仰によって極端にねじ曲げられてしまっているのである。
 これでは、八百万神に申し訳が立たないであろう。
 小生思うに、八百万神のお考えは「人間に一切のケガレなし」である。
 こうやって整理してくると、ますます腹たつ「忌明け50日、神社境内に入ってはならぬ」である。

 参考までに、小生の「日本の神々」の捉え方は、次のとおりである。少々長いですが、お読みいただければ幸いです。
(論文「新・学問のすすめ」(平成20年4月) 第3章:思考改革は対称性の論理にあり 第4節:日本社会における対称性の思考 より抜粋)
 古来より日本人は、動植物はじめ自然物も神であり、多くの神々と一体になって平和な共同体づくりをするという「対称性の論理」のもとに、人と自然が共生を図り、豊葦原瑞穂国をつくってきたのである。そして、自然に対する畏敬の念をずっと持ち続けてきた。こうした文化を残している先進国は唯一日本だけである。
 世界には、先進諸外国をはじめ、唯一神を信仰する文化が圧倒的に多い。そうした文化は、唯一神が他の神々を皆殺しにしてしまったがゆえに、個々の自然物そのもの一つ一つに対する畏敬の念は生まれようがない。何か困ったら、手の届きそうもない唯一神にすがるしかないのである。その唯一神信仰の質が悪いところは、人間を生き物の上に置いてしまったことである。
 つまり、自然との共生を拒否したのである。なお、このことについては、同情の余地はある。激しい旱魃などの自然現象に度々苦しめられれば、大自然を恨む気持ちになってしまうからである。
 そして、旱魃を経験する中で大衆化した仏教においても、その傾向が見られる。仏を唯一神にし、ただ念仏をとなえれば救われるとするのは、全くの同類であるからだ。拝む対象は仏像の数だけいろいろあるが、それは唯一神の仏が姿を変えて登場しただけのことであり、神の子イエスと同じである。
 こうした信仰においては、自分と身近な者だけが救われればよいのであって、人と自然の共生は眼中になく、決して自然との共生は成り立ち得ないのである。
 これらの信仰は、唯一神(仏)に全てを任せる他力本願であり、自らが考えることを放棄し、ただひたすらすがるのみという形をとる。ここには、人の思考が働く余地が全くない。唯一神(仏)によって、人は人のこころを喪失させられているからである。
 日本は違う。世界にまれにみる豊かな自然環境が変わることなく保ち続けられたがゆえに、八百万の神を信ずる多神教の世界でずっと暮らしてこられた。こうした世界では、「信仰」とは、神仏にすがるのではなく、単に神仏は存在するという意識があるだけである。
 従って、ことあるごとに、あるときは山の神に、あるときは川の神に、そして、あるときは仏に対して、自分たちがどう立ち振る舞ったらよいのかを、神仏と一体になって考えてこられたのである。 
 そうして得られた結論が、日本古来の独自の神話であり、民話であり、言い伝えである。当然にして地域の自然環境の違いにより、内容が少しずつ異なったものとなり、また、開発に伴う環境の変化に合わせて内容が変化してきているのである。
 そして、あらゆる神仏を敬いつつ、豊穣の祭などを行って、神仏とともに喜びを分かち合うのである。神仏は近寄りがたい存在ではなく、ごく身近な存在であった。こうして、喜びも悲しみも神仏と共有できる、こころ豊かな文化が育まれたのである。
 このように、日本の宗教文化は先進諸外国の民族と全く異なる。極端に言えば、神仏と自己の同居である。
 神仏と自己の同居については、バラモン教の「梵我一如」の思想と共通するものの、これは、人間の理解を超えるほどに両者の距離が離れているから、同一視できない。これよりも、アマゾン下流域を放浪するグアラニ族の思想である「人間は確かに人間であるが、同時に人間にとっての他なるもの、すなわち神でもある。神ー人間、人間ー神である。」というものに、より近いものである。
 日本では、神仏は超越者ではなく、特に、八百万の神々は神社の拝殿という手が届く所にいらっしゃるのであるから、自然の摂理というものも、間近な存在の神々と一緒になって思考し、十分に認識し得たのである。こうして「対称性の思考」が育まれてきたのである。
 この日本文化の思想の本元であえる「対称性の思考」や「対称性の論理」を、今一度復活させる必要を痛感する。
 小生が思うに、そうした認識の集合が大自然の摂理であって、大自然の真理であり、これは、一神教の世界の人々のように人の知恵では到底分かり得ないものと考えるのではなく、多神教の世界の人々はその思考力でもってその多くを知る得るというスタンスを取ってきたのであろう。

<備考:この“腹たち日記”の目的>
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック ⇒ 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。
 

辟易する日本人の匿名性 [公共]

 日本人は自分を語ろうとしない。何か物を言うに当たっては、自分の名前は出さず、匿名にしたがる。
 これは、個人情報の保護が喧しくなって、よりひどくなったのではなかろうか。
 加えて、ネットでの発言はほぼ全部が匿名で、これが正しいという風潮がある。
 こうしたこともあるからであろう、小生のブログでは無料健康相談をしているのだが、相談メッセージが入ったもののメールアドレスが書いてない。これじゃあ、返事の書きようがないではないか。
 何でだろうと思って、自分のブログのメッセージ欄をクリックしてみた。そしたら、メールアドレスは必須項目になっていない。
 まあ、そうした配慮も分からぬではないが、匿名性に犯された方々はメールアドレスを入れようなどとは思わないのであろう。
 すでに数日経ったが、その方から、返事が来ないがどうなっているのか、といった再メッセージも来ない。
 やりきれない思いだ。
 ところで、最近、アメブロには困惑している。アメブロでもブログを立て、月に1本ほど真面目な記事を書いている。それにコメントが何本か付くようになった。
 いいご意見がいただけたのではないかと、早速開いてみるも、なあんだ、というコメントばかりだ。
 ろくに中身も見ず、単に自分のブログを見てほしいとのお誘いである。どうせそのブログも匿名だろう。
 ふざけるのもいいかげんにしろ!である。
 小生はどのブログにも住所氏名電話番号を入れている。自分を語り、意見コメントには自分の反証をきちんと書くようにしている。
 これが常識ではなかろうか。どこのだれだか分からない輩が無責任な記事を書いているようではネットを汚すだけである。
 正しいことを書いたがために身の危険を感じる、というご意見もあろうが、これは遠い昔から将来にわたって人間社会の常であり、それを恐れていては世の中何も変わらない。
 自分の命を賭けて訴えるしかなかろうに。それが原則だ。
 匿名で物を言うのは、もう止めにしてほしいものだ。

<備考:この“腹たち日記”の目的>
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック ⇒ 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。

 

電車内での携帯電話自粛アナウンスにカチンときた [公共]

 4日前になるが、往きの電車内で例によって「携帯電話の使用はご遠慮ください」のアナウンスがあった。
 ところが、帰りの車内放送では「携帯電話はご使用にならないでください」であった。
 「遠慮」とは大違いの物言いである。
 これにはカチンときた。「使うなとは何事ぞ」である。
 そもそも、こんな文化があるのは日本だけだと聞く。
 たしかに列車内という居場所を変えにくい状態において、耳障りな声が周りから聞えてくるのは不愉快であり、そこにいる人に迷惑にならないように、というのは常識であり、社会道徳でもある。
 ところが、いい年こいたおばちゃん連中が大声でわーわーしゃべくり、馬鹿笑いまでしているのはおとがめなしとしていいのだろうか。よっぽどこちらのほうが質が悪い。
 「携帯電話の使用はご遠慮ください」と何度もアナウンスするのであれば、それに引き続いて「また、他人の迷惑になりますから、大きな声でしゃべくったり、高笑いなさらないでください」としっかりアナウンスしていただきたいものだ。
 小生が電車に乗ったときは、携帯電話はマナーモードにしておくが、時折電話がかかってくる。それは、女房も出かけたりしていて自宅なり店に誰もいないとき、携帯電話へ転送をかけておくからだ。
 そうした電話には出なければならない。そして、出たとしても事情を話し、簡潔に電話を切ることにしている。当然に、大きな声は出さないし、高笑いなぞ絶対にしない。
 これが周りの人にどうして迷惑になろう。
 頭にカチンと来ても、たいていはもうその日に忘れてしまうのだが、今回は2、3日前にも思い出したし、4日も経った今日も思い出した。
 嫌なことは早々に忘れたいから、こうしてキーボードを叩いたところである。
 いいかげんにせえ!

<備考:この“腹たち日記”の目的>
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック ⇒ 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。
 
 

東京オリンピックがやってくると愛煙家はペシャンコにされてしまう [公共]

 団塊世代68歳の小生、喫煙歴はちょうど50年となった。
 高校生のとき、親父のタバコをくすねて吸ってみたが、むせ返って喉がヒリヒリ。こんなもの吸えるか、であり、そのときはタバコなんて吸おうとは思わなかった。しかし、大学に入り、完成が遅れていた大学寮に5月から入居し、皆が順々にタバコを吸うようになって、小生も“大人の仲間入りをしなきゃ”とタバコを吸い始める。最初はハイライトだった。かなり強いタバコで、今でも売られているが、慣れないうちは煙を肺まで入れず、口の中でプカプカやっていただけだった。でも、すぐに慣れ、普通に吸えるようになった。
 今では、こんな強いタバコを吸おうものなら喉がヒリヒリし、もう受け付けない。今はタール6mg程度のものが小生の喉にやさしい。

 ヘビースモーカーの小生。デスクワークをしていたサラリーマン時代、1日4箱はハイライトを吸っていた。薬屋稼業になってからも1日2箱半は必要としていたが、最近はストレスがあまり掛からなくなり、また閉店後は居室での喫煙を止めたから、1日1箱半といったところまで本数が減った。
 この50年間、1日平均3箱を吸ったとして、今現在の価格で計算すると、何と総額2千万円、うち税金1千万円! よくぞこれだけ高額の税金を納めたものだと我ながら感心させられる。これからも、飽きることなく毎日コツコツと納税し、これは死ぬまで続けることになるに違いない。

 今日情勢は、喫煙者が一人減り、また一人減りと、愛煙家にとっては何とも寂しいかぎりである。あれこれ会合があっても、10人程度の集まりであると、小生の他は喫煙者が1人いるかいないかといった状態だ。こうしたことから、実に肩身の狭い思いをさせられる。たばこは健康に悪い、副流煙でがんになる、近くで吸われると煙たい、などと攻撃されて、散々な目に遭うから、恐れ入る。
 この世の中、何もかもクリーンになり過ぎて、煙が目の仇にされ、ダイオキシン問題で野焼きが大幅に制限されてしまい、今度は副流煙だ。これらは多少の我慢をすべきものだろう。野焼きで健康を害するものではなく、ダイオキシンだって当時騒がれたほどの害は全然ないことが判明しているし、たばこの副流煙となると捏造データでもってがんになると言っているだけだ。
 もっとも、喘息患者など煙に敏感に反応する方もいらっしゃる。そうした方々には個々の対応が求められようが、それはそれ、そうでない方はある程度の我慢をしてくださっても良かろうというものだ。

 こうした主張が通らなくなっている現在であり、東京オリンピックを契機に嫌煙権という権力が一段と高まりをみせるのは時代の流れとして受け止めねばならないのは分かっている。
 タバコの煙の臭いが嫌い、単にそういうことであれば、喘息患者の前ではタバコを遠慮するのと同様に、タバコを吸うのを控えねばならぬ。そうした方が増えてきているようであるから、会議や勉強会でタバコを吸うことはないし、居酒屋だって喫煙コーナーですったり、隅っこに喫煙者が集まって遠慮しつつ少ない本数しか吸わないようにしている。
 だがしかし、「タバコの副流煙を吸い込んだら、がんを発症する危険が高まるから、吸わないでくれ」というのには、少々閉口する。嫌煙権者はなんでもかんでも愛煙家を叩かねば済まない気性のようであり、「吸うのは勝手だが、煙たいから遠慮してくれ」という気遣いが全くない。

 東京オリンピック対応で、喫煙可能な場所が大幅に減らされそうだ。これでもか、これでもか、と。愛煙家はペシャンコにされてしまいそうだ。
 この世は民主主義の社会ではなかったのか。
 タバコが害になるというちゃんとした科学的根拠があるのであれば、発がん性化学物質は食品添加物としてはならないのと同様にタバコの製造を禁止すればいいのである。これで国民の健康が確保されるというものであり、愛煙家もそれを機会に禁煙に入ることができる。そうした議論を国民の間で、あるいは国会で行っていただきたいものだ。 
 ヘロインは麻薬であり、習慣性があって容易には止められず、脳の神経伝達回路を破壊し、やがて廃人にしてしまうものだから禁止されているのだが、麻薬様物質であるアルコールやニコチンはそうしたことがなく、世界的にはマリファナもこれらと同質のものとして解禁の方向にある。つまり嗜好品の扱いを受ける酒やタバコそしてマリファナであり、周りの人がとやかく言う性質のものではないのは、はっきりしていよう。
 こうしたことについて、議論を深めていただきたいのである。

 もう一つ付け加えれば、カフェインとて麻薬様物質である。コーヒーや緑茶がカフェインがゆえに嗜好品となっている面が強いのである。いや、コーヒーには、緑茶には、かくかくしかじかの体にいい物質が含まれているから、タバコと同質にしないでくれ、という主張があるだろうが、タバコだって、体、特に心の健康にとてもいいものであると小生は思っている。だから、小生は毎日タバコを吸っているのである。
 加えて、朝の一服が自己検診の非常に有効な手段となる。血液検査などの定期健診より優れた検診方法であるのは間違いなかろう。
 その昔、専売公社がコマーシャルで「今日も元気だ、たばこが旨い」とか「たばこは健康のバロメーター」とやっていたが、正にそのとおりである。タバコがまずくなったら、どこか体がおかしいということになるのであり、愛煙家にとって健康管理面で大きな力となるのである。

 未定稿ではあるが、怒りを書きなぐって本来の目的を達成したから、これまでとしておこう。

<備考:この“腹たち日記”の目的>
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック ⇒ 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。
 

どうやら報道管制がブログの世界にも敷かれているようだ [公共]

 小生のメインブログ「薬屋のおやじのボヤキ 」は1年ほど前までは毎日2000人近いアクセスがあった。
 そのブログの趣旨は、「公的健康情報には嘘が多くて、それがためにストレスを抱え、ボヤキながら真の健康情報をつかみ取り、発信しています。」というもので、高血圧、コレステロール値、胃薬、ヨーグルトなどの情報の間違いをズバズバと指摘しており、特に例示したものに関する記事のアクセス数が常時断然に多い。
 その後、ここ1、2年、目新しい記事を投稿していないので漸減したものの、12月に入った時点では毎日コンスタントに1000人強のアクセスがあった。
 ところが、12月9日に初めて1000人の大台を割り込んで948人となり、翌日はもっと減って735人となった。そして、その後は700人前後で推移している。
 急減したのは、“カウンターが故障してんじゃねえの?”と、最初疑ったのであるが、そうではなさそうだ。陰謀説が浮かび上がったのである。それを知ったのは今日のこと。
 自ら「キチガイ医」と自称しておられる内海聡氏で、そのブログに次の件があります。

 「…特に医療系の記事を発信している人はフォロワーが減っているのですが、…実はこれは世界戦略であり、グーグルの検索戦略につながっています。その裏にはあるシナリオが見えてきます。この現象の中で唯一といってもいいくらい激増を繰り返しているのが、やはり安倍晋三と安倍昭恵。…増えているヘビーユーザーはみな要注意人物か、体制真っ只中の人だと考えたほうがいいでしょう。」

 なんだか眉唾物ですが、内海聡氏のブログと同様に小生のブログも当局からにらまれるようになったのであれば、これまた光栄なことです。
(参考)内海聡氏の「うつみん(内海聡)のブログ」最新記事
    FBの動きとフォロワー数減少について

(備考)
 ページアクセスが急減した別立てブログ「薬屋のおやじのボヤキ」の主要記事
 高血圧は健康で長生きできます。血圧の薬は飲んじゃダメ。中高年は180でも大丈夫。(改訂版)
 コレステロール降下剤は毒薬。更年期すぎの女性は飲んじゃダメ!(改訂版) 
 ヨーグルトは体にいいのか悪いのか、その答えは明らかです
 胃薬を飲めば飲むほど胃は悪くなる(付記:お茶も薬のうち)
 インフルエンザは単なる風邪の一種ですから、むやみに医者の薬を飲んではなりません

<備考:この“腹たち日記”の目的>
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック ⇒ 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。
 

コメント(0) 

モリカケ問題、文書捏造で漂流する日本列島、このままでは沈没か? [公共]

政治にはうんざりし、実質上は無関心層と同じ状態にある小生。で、あっても、世の中の動きをどれだけかは把握しておかねばならぬ。そこで、新聞はもう2年以上読まなくなったものの、ネットニュースは毎日ちょこちょこっと眺め、また、右翼・左翼の両極の政治評論家の論評をざっと読んだりしている。

そうして得た情報、薄っぺらな大雑把なつかみではあるが、ますます政治にウンザリしてきたこの頃である。
安倍さんは、前に首相になったときから不適格者だと小生は思っているが、安倍さん以上の人物は誰もいないのだから、彼に首領を任せるしかない。これは明白であろう。
阿部さんのモリカケ問題で、政治は空転している。たしかに口利きしたであろうが、それがどうした、と言いたい。政治家に口利きは付き物じゃないか。そんなものはとてもじゃないが贈収賄の範疇には入らない。1国の首領の贈収賄というものは、歴代韓国大統領のような億、十億という金額を言うのであり、また、米国のような億、十億という政治献金を言うのである。前者は逮捕されるが、後者は正当なものとして罪にはならない。
ここらあたりをちゃんと踏まえて、安倍さんがどうなのか、それを正当に評価せねばいかんのである。

本省官僚、地方官僚も情けない。文書捏造とはなんたることだ。そもそも、あれこれ文書に書き過ぎるからいかんのだ。小生も21年間、地方官僚をやっていたが、政治家がらみの案件は、口頭で言うだけで文書には一切記さなかった。それが行政官の政治家に対する礼儀というものだろう。
「首相案件」なんてことを文書にするのもアホのやることだ。口頭で済ませば十分。
地方官僚を中途退職して四半世紀になるが、行政文書の公開が進んでいる今日、文書は極力当たり障りのない内容とし、添付資料なんてものは、起案者の手持ち資料として扱い、決裁文書に一切くっつけてはならない性質のものだ。決裁が下りたら手持ち資料はシュレッダーにかけて処分すべし、である。
そうした資料を後生大事に決裁文書に付けて保存しておくというのは、何かあったときにそれを持ち出して“政治家をゆする武器”にしようという魂胆があるからじゃないのか。官僚も落ちるところまで落ちた情けない存在だ。政治家に対する礼儀というものが丸でない。

政治の空転は早々に終えてほしいものだ。
憲法改正は、9条にあらたに第3項を追記して自衛隊を明記する案が固まりつつあるも、なぜにこんなな案が出てくるのか。
憲法9条と自衛隊の存在という相矛盾する大問題は、だれが考えたって、どうにかせねばならない事項である。なぜならば、憲法ってなんだ?ということになるからである。小学生に聞いてみればいい。“9条2項で軍隊はだめだと書いてあるけれど3項で軍隊を置くなんて、矛盾してる。そんな訳の分からない憲法なんて、ないのと一緒だよ。憲法は103条まであり、9条以外も意味がないものになっちゃうよ。”と小学生はいうだろう。これに納得のいく解答が示せるだろうか。
先の大戦に限らず近代の戦争に関して、ちゃんとした歴史認識を持たねばいかんだろう。今でも侵略戦争は世界中でやっている。アメリカ、ロシア、中国という3大国が絡むケースが圧倒的に多い。超大国の覇権主義は将来的にも強まりこそすれ弱まることはない。
それに日本はどう対処するのか。そこのところをしっかり議論してから、憲法9条をどうするのか決めるべき性質のものである。先の大戦の反省だとか、アメリカから押し付けられた条文だとか、そんな大昔のことはどうでもいい。将来を見据えて日本がどう動くのか、そこが重要じゃないのか。

働き方改革というのも重要な課題だ。
しかし、日本はいつから「労働」だとか「従業」という言葉に支配されるようになってしまったのか、ここのところをしっかり押さえてかからねばなるまい。「はたらく」とは何か、「仕事」とは、「職」とは、こうしたことについて、日本の文化はどういうものであったのか、その文化を変えるのか守るのか、そうした根底のところから考えねばなるまい。
欧米の「労働」だとか「従業」という言葉は、その根底に「奴隷=労働」という考えがあり、労働は卑しいものという観念がある。日本もそこらかスタートして、はたしていいのか。いいわけないだろう。
労働力が不足するようになるから年寄りも働けだとか、非正規社員がかわいそうだから正規にしろとか、そんな付け焼刃的対策をいくら推し進めようとしたって、今の流れは容易には変えられない。根底から見直して、日本文化に根差した働きやすい環境づくりを政策として樹立するしかないのではないか。

少子化に絡む待機児童問題でも一言言いたい。
小中学校は義務教育で、該当年齢になったら誰でも入学できる。小学校入学待機なんてことは一切ない。それが保育所は待機せねばならないことがある。そんなバカな話があっていいのか。まさに「保育園落ちた日本しね」である。
おぎゃあと生まれた赤ちゃんを小学校に入学させるまでの社会的責任は、義務教育を貫徹する以上に重要な責務であろう。若者が安心して子造りできる社会にすることが何よりも一番重要なことであり、それに必要な政府予算が組めないというのであれば、年寄り向けの政府予算を減ずればいいのである。子どもが大事か年寄りが大事か、そんなことは明々白々である。

他にも言いたいことが山ほどあるが、これくらいにしておこう。なんにしても、課題の根本のところから議論を進めないと何も生まれない。少しはそうした議論を聞きたいものだ。

<備考:この“腹たち日記”の目的>
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック ⇒ 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。
 

コメント(0) 

日本人のアルコール代謝の低下が“適応進化”とは何事ぞ!これは退化だ [公共]

 「全ゲノムシークエンス解析で日本人の適応進化を解明-アルコール・栄養代謝に関わる遺伝的変異が適応進化の対象-」と題して、理化学研究所ほか3機関の共同研究が発表された。
 これはネットニュース「酒に弱い日本人が増えるよう「進化」 遺伝情報から判明」で知ったのだが、表題・見出しの“進化”という表現には恐れ入った。あきれて物が言えない。

 論文の要旨の中で、「生物の性質が、世代を経るごとに周囲の環境に対応して変化する現象を、適応進化と呼びます。」と定義されているが、客観論からして、これは「適応進化」ではなくて「適応変異」と呼ぶべきだ。
 そうした「適応変異」の中で優れたものを「適応進化」と呼び、失っていくものは「適応退化」と呼ぶのが正しいだろう。つまり、変異には進化と退化の両方があるのである。

 どう考えたって、アルコールの消化能力が落ちるということは退化以外のなにものでもない。いい例が、霊長類の過半が失ったビタミンC合成酵素の喪失である。たいていの哺乳類はこれを持っているのであるが、ヒトは完璧に失っており、ビタミンCを含有した植物性の食べ物を摂取せねば生きていけない。これを「進化」と言えるのか。「退化」以外のなにものでもないではないか。

 人間はいかにも横柄である。ヒトと最も近い種のチンパンジーと比較して、違いがある形質を皆、これ「進化」したと言う。人種(今ではチンパンジーも1頭2頭と呼ぶのではなく1人2人と呼ぶ)差別も甚だしいではないか。
 体毛が抜け落ちて丸裸になった猿を進化したというのか。フェロモンを嗅ぎ分けて仲間か新参者かを判別する能力を失った者を進化したと言うのか。敵をやっつけるための鋭い牙を失った者を進化したというのか。チンパンジーの握力は普通2~300kgあるのに対し、ヒトは50kgほどしかないのだが、ひ弱な筋肉になったのを進化したというのか。塩分を過剰に摂取してしまい、体内塩分の調節機能を不完全にしてしまったのを進化というのか。
 このように、ヒトはチンパンジーに比べて、あまりにも劣るのであり、唯一「進化」したと言えそうな脳力であるが、これとてヒトは単に脳味噌の量が多いだけのことであって、チンパンジーに効果的な学習訓練を積み重ねてやれば、ヒトとどっこいどっこいの脳力を発揮するようになるのではないかと思えてならない。

 裸の猿(人間)は、もう少し謙虚にならねばいかんだろう。

<備考:この“腹たち日記”の目的>
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック ⇒ 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。
 

コメント(0) 

ふるさと納税の寄付金を基準財政収入額に算入すりゃいい、でも決して抜本的解決にならず [公共]

 野田聖子総務相は9月11日、ふるさと納税制度を見直す方針を正式に表明した。過度の返礼品を出している市町村に対する度重なる総務省からの見直し要請に応じなかったからだ。
 といったニュースが流れている。
 そもそもこの制度「ふるさと納税」には大きな欠陥がある。
 以下、順を追って説明しよう。

 市町村行政で一番重要な仕事は、いかにして税収を上げるがであり、優秀な首長は企業誘致を成功させる。これによって法人住民税と固定資産税(土地、建物だけでなく、設備も課税対象)の大幅な税収増加が期待できるからである。
 だがしかし、これによって毎年10億円の税収があったとしても、実質上の収入増加は25%の2.5億円にしかならない。でも、これだけの収入増があれば行政サービス強化や新たな地域振興策を起こす原資として貴重なものとなる。

 なぜ25%か、これを説明しよう。
 日本のほとんどの市町村は財源不足しており、毎年国から地方交付税交付金をもらっている。
 その計算方法は次のとおり。
 基準財政需要額ー基準財政収入額=地方交付税交付金
 基準財政需要額は個々の市町村ごとに毎年都道府県が細かく計算し、最低限の行政需要に応えることができる額である。
 基準財政収入額は、法定普通税を主体とした標準的な地方税収入、これも毎年計算され、その総額の75%の額を言う。
 そこで、例えばA市の基準財政需要額が100億円で、標準的な地方税収入が100億円とした場合は基準財政収入額が75億円となるから、地方交付税交付金は25億円となる。よってA市の収入は125億円となり、最低限の行政需要100億円以外の独自の行政サービスや地域振興策に25億円を使うことができる、という仕組みになっている。
 同規模の基準財政需要額となるB市の標準的な地方税収入が40億円であったならば、基準財政収入額は30億円となり、地方交付税交付金は70億円、B市の収入は110億円となり、独自の行政サービスや地域振興策に使える額は10億円にしかならない。
 なお、財政力指数という物差しがあるが、これは基準財政収入額を基準財政需要額で割ったもので、A市の場合は0.75、B市の場合は0.3となる。市町村の全国平均は、約0.5。

 少しでもよりよい行政サービスや地域振興策を行うには、財政力指数を上げねばならず、つまり冒頭で言ったように企業誘致を成功させるなどして税収を上げるしかないのであり(もっとも実質上の税収増加は25%しかないが)、ここで市町村間の競争が行われるのである。もっとも、このような奇特な首長はまれにしか存在しないが。

 さて、ふるさと納税制度が始まって久しいが、ふるさと納税は「臨時の寄附金」の扱いとなり、「標準的な地方税収入」に算入されない仕組みになっている。同じ「納税」でありながら、その扱いが全く異なる。
 こうなると、首長にとって「ふるさと納税」ほどおいしい餌はないことになる。10億円のふるさと納税が手に入れば、丸々10億円が使えるのである。地道に汗をかきかき企業誘致して10億円の税収が入っても、交付税が7.5億円減るから、実入りは2.5億円。一方、ふるさと納税の場合は、市町村公式サイトにデカデカと「ふるさと納税をお願いします。豪華返礼品差し上げます。」とPRするだけでいいのである。ホームページ制作会社に100万円の委託費を払えば、かなりインパクトのあるページができるであろう。首長の中には、動画も入れて1千万円で委託するか、ということもあろう。
 そして、返礼品である。返礼品をケチっては、わずかのふるさと納税しか入らない。ここは大判振る舞い、ふるさと納税額以上の返礼品を送ったら赤字になるが、納税額の半分を返礼品に使っても5割の実入りだ。じゃんじゃん返礼品を出そう。
 商魂たくましい首長となれば、必然的にそうした行動に出る。どこが悪い、である。

 こんなことは当初から予想されていたことである。これが問題となってきて、次のとおり制度改革の提案をした市町村がある。それを総務省のサイトから引用しよう。
 幸田町 (愛知県)
 提案:ふるさと納税の寄付金を基準財政収入額に75%算入する。
 理由:ふるさと納税の寄付金獲得のため に制度を乱用し不適切な競争に発 展している。ふるさと納税の寄付金を基準財政収入額に75%算入することで適切な運用を確立したい。
 これに対する総務省の回答は次のとおり。
 基準財政収入額は、法定普通税を主体とした標準的な地方税収入である。したがって、ふるさと納税による寄附金については、基準財政収入額に算入しないこととしている。

 総務省は少なくとも、この幸田町の提案を飲むべきだろう。
 しかし、この場合にあっても、ふるさと納税額の25%が実質の実入りとなり、ふるさと納税額の実質の実入りの半額の返礼品、つまり12.5%の返礼品を出しても、うまみがある、止められない、となってしまう。
 これをいかにして止めるか。走り出してしまっているふるさと納税制度であり、もはや解決策はなさそうである。総務省が「一切の返礼品はダメ。領収はがきの郵送しか認めない」という強権的なお達しでも出せば別だが、そこまでの通達は地方自治法の精神に抵触して、できないであろう。
 残された道は、制度廃止しかないことになる。でも、これができそうでできない、それが日本という国。いやになります。
 県職員時代に、多少とも市町村財政指導に当たったことがある小生である。地道に企業誘致に力を入れ続けている首長、商魂たくましく合法的に県職員に賄賂を毎年贈り続ける首長、そういった首長を見てきて、どうしようもない今般のふるさと納税問題について、腹立たしさを覚えます。

<備考:この“腹たち日記”の目的>
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック ⇒ 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。
 
コメント(0) 

砂防ダムに落ちたイノシシをなぜ助けるの? 殺して食っちまえ! [公共]

 このユースを聞いて、行政がおかしなことをやってるなと思った。
 そしたら、今日のネットニュースで次のように流れていた。

 福岡県北九州市の砂防ダムに落ち、脱出できなくなったイノシシが注目を集めている。同市は静観する姿勢だったが、報道で知った人から「かわいそう」と同情の電話が殺到。やむなく救出に動きだした。ただ、市内ではイノシシによる農業被害が深刻。助けを求める電話は、ほとんどが市外からだった。現場の実情を脇に置き、地元自治体が対応せざるを得ない異常事態を受け、住民に困惑や不安が広がっている。
 …同市の鳥獣被害対策課は鳴りやまない電話の対応に追われた。ほとんどが同課に対するクレーム。「なぜ対応しない。怠慢だ」「行政の責任だ。助けろ」。強い口調で担当者を叱責する人も多かった。1時間以上、怒鳴られた担当者もいた。
 市内はイノシシの頭数が増加傾向にある。毎年必ず野菜や稲に被害があり、2016年度は2・3ヘクタールが荒らされた。市は今年度、1500頭を捕獲する計画を打ち出し、地元農家や猟友会が懸命に取り組む。
 行政の対応に地域住民は戸惑っている。砂防ダムの近くで子育てをする30代の女性は「逃がすのではなく、捕まえてほしい」と切実に訴える。周辺は以前からイノシシが頻繁に出没。近くに小学校があり、子どもが襲われないよう、住民は常に神経をとがらせている。イノシシの活動が活発になる夜は、子どもを外に出さないように地域で徹底するほどだ。「うろつくイノシシが増えるのは怖い」と小学生の娘を見つめながら女性はこぼす。
 現場から500メートルに住む財田勝治さん(76)は、家庭菜園で作っていたダイコンを3週間前、イノシシに掘り返されたばかり。落ちたイノシシをかわいそうだとは思うが「近隣の農家は本当に困っている。無責任に助けてとは言えない」と複雑な胸の内を明かす。
(引用ここまで)

 日本全国、イノシシは増え続け、山間地やその縁の平野部に出没するようになって久しい。
 さて、どこに住んでいる輩かしらないが、「イノシシを保護しろ! ましてやイノシシを食うとは何事ぞ!」と、いきり立てる。
 じゃあ、そんなあなた、同じ生き物であり、それも極めて近い種のブタは食わないのか。ゴリゴリのイスラム教徒なら許せる発言だが、ブタを食う人間には、そんなこと言う資格なしだ。
 実に腹が立つ、自然保護主義者である。イノシシやブタどころか、鶏肉も一切食うのを止めてから鳥獣保護を言え。野生動物も飼育動物も全く違わぬ生き物なんだぞ。
 北九州市の市長さんよ。地元猟友会に指示して、ズドンとやっちゃいなよ。そして、市長も猪鍋をつつくのである。これが正しい行政の姿だ。

<備考:この“腹たち日記”の目的>
 怒りにしろ何にしろ嫌なことは早く忘れるに限ります。その一番の方法は「紙に書く」ことだと教えられました。それを教えてくださったのが、「みやざき中央新聞」編集部の西畑良俊さん。(2013年9月16日号の「取材ノート」の記事)
 詳しくは、下記の記事をご覧ください。
    クリック ⇒ 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生とて、腹が立つことは度々あります。そうしたときは、このブログに殴り書きして(キーボードが壊れるぐらいに強く叩いて)ストレスを発散することにします。
 

コメント(0)